夫婦町の経緯

 松島町と象潟町は、俳聖松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』で「俤 松嶋にかよひて又異なり 松嶋は笑うが如く 象潟はうらむがごとし」とつづっているように、往時から広く世に知られた対照的な絶景の地でした。

 また、約700年前、象潟町横町出身の谷(たに)女が松島町のすでに他界した小太郎に嫁ぎ、その父母に孝養を尽くし、一生を小太郎に捧げた『軒端の梅心月庵紅蓮尼物語』は日本女性の鑑として語り伝えられており、松島町名物の「松島こうれん」は紅蓮尼が残したものです。

 こうした地理的、歴史的背景によって両町は夫婦の如く存在し、緊密に結ばれていることから、昭和62年(1987)8月1日に「夫婦町」の盟約を取り交わしました。
同日、紅蓮尼の生家跡である象潟町公会堂の前庭で、紅蓮尼碑が建立されました。
なお、「夫婦町盟約締結調印式」が8月1日に行われたのは、芭蕉が象潟を訪れた元禄2年(1689)6月16日が、今の新暦で8月1日頃に当たるためです。
 

夫婦町との交流

 これまで、象潟町の親睦団体「十日会」、町議会、行政協力員、婦人会、青年グループ、太鼓グループなど多くの人々が交流を積み重ねております。

現在、毎年行っている交流事業はつぎのとおりです。

 ●象潟小学校の修学旅行として松島町を訪問。

 ●スポーツ少年団相互訪問交流(野球、サッカー、バレーボール)。 

 ●両市町のイベントへの参加交流
  (松島町:「小太郎・紅蓮尼比翼塚供養祭」・「松島カキ祭り」、にかほ市:「あっつあつおらほの鍋自慢」)。
 

紅蓮尼

 時は元亨(1321から1324)のこと、象潟の商人、森隼人は伊勢参りの途中、松島の掃部と道連れとなりました。
二人が国へ帰る頃には、森の娘タニと掃部の息子小太郎の縁組の話が出来上がっていました。

 森隼人が象潟へ帰ってそのことをタニに伝えたところ、タニはその縁を信じ、まだ見ぬ小太郎に心を引かれていきました。
そのときタニは18歳だったといわれ、嫁入りの身支度を調え、はるばる山を越えて松島へ嫁いでいきました。

 しかし、松島へ着いてみると、夫となるはずの小太郎はちょっとした病がもとで亡くなっていました。
まわりの人たちは、また国に戻ってよき夫に嫁ぐようすすめたのですが、タニは「縁あって約束したからには、小太郎の妻であり掃部家の嫁である。
小太郎の供養をしながら、小太郎の両親とともに暮らす」といって、どうしても帰ろうとしませんでした。タニはそれ以後、実の父母に仕える様に婚家の親に孝養をつくしたといわれています。

 タニは亡き夫が幼き日に植えたという梅の木に向かって、梅の花を見る小太郎を思って悲しくなってしまうので、
『移し植えし 花の主は はかなくに 軒端の梅は 咲かずともあれ』 梅の木の主で本来は夫となるべき小太郎もいないのに咲かないでおくれと詠んだところ、翌年はもう花が咲きませんでした。

 しかし、咲かなくなってしまうと、また寂しいので、今一度、
『咲けかしな 今は主と ながむべし 軒端の梅の あらん限りは』 もう一度咲かせてほしいと詠んだところ、また香り高い花をつけるようになったと言います。
現在、三聖堂の隣には、仲良く二人の名前を刻んだ石碑があります。

 こうして幾年月が過ぎ、老父母の死を見とった後、タニは円福寺(瑞巌寺)に入り、心月紅蓮の名をもらって尼僧となりました。
そして生計の為に門前で長方形のせんべいを焼いて商いました(瑞巌寺の観音様に参詣する人たちがお供えした米を粉にして、煎餅を焼いて村の人々に施しをしたことが始まりとも言われています)。
松島の人々はこのせんべいを「おこうれん」と呼び、今でもそのせんべいは残っています。
おこうれんが長方形だったのは紅蓮尼が和歌を好んだため、短冊の形にしたものといわれています。

 紅連は77歳まで生き、人々はこの貞節を末永く称えたのです。