●雲居希膺墨跡 27幅 江戸時代前期 平成2年4月6日指定
出山釈迦図他26点。
瑞巌寺の中興開山雲居希*が瑞巌寺の経営、弟子の教育、檀信徒の不況のために揮毫(きごう)した書。

 

●瑞巌寺殿法号 雲居希膺筆

 
仙台藩祖・伊達政宗の法諡(ほうし)(死後に贈られた仏教徒としての法名と称号)です。
黄門は中納言の中国名。
政宗は仙台の北山五山など、多数の寺を造営していますが、その法謚には代表である瑞巌寺が冠せられています。

 

●出山釈迦図 素雪筆 雲居希膺賛

6年の苦行の後、一週間連続の座禅で大悟した釈尊が山を下る姿です。
長く伸びた髪や髭・爪に、苦行の痕が伺えます。
この資料は法嗣の虚雲の求めにより制作され、忠宗が掛け軸に仕上げたことが記されています。

 

●隻履(せきり)達磨図 一景筆 雲居希膺賛

隻履というのは、隻方の履(くつ)の意味。
禅の初祖達磨大師が、その死後に片方の履を手に、うまれ故郷のインドへ帰ったという伝説に基づいたものです。
この図は雲居自筆の「再住」から、正保2年(1646年)以降の作であることがわかります。 

 

●遺偈(ゆいげ) 雲居希膺筆 万治2年(1659) 平成2年4月6日指定

遺偈とは、禅の高僧が死に臨んで心境を綴った詩です。
雲居は臨終に際して、弟子たちから遺偈を求められると「水鳥樹林(すいちょうじゅりん) 我が偈を説く 何ぞ敢(あ)えて重説(じゅうせつ)せん」と笑って遷化(せんげ)(高僧の死去のこと)しました。
その後、弟子の水源が「師(雲居)から預かった」と言って硬く包まれた品物を出してきました。
みなで相談して開いたところ、出てきたのが、この偈だったといいます。


●往生要歌版木(おうじょうようかはんぎ)一組 平成2年4月6日指定

江戸時代
1件5枚(縦18.7cm 横28.0cm 厚さ2.3cm 外)
一面に一丁分(2頁分)12首ずつ版刻されています。5面とも裏表両面に刻んであります。
雲居の禅布教の特殊さを示す108首の道歌を往生要歌と言って、俗に雲居念仏(あるいは歌念仏)と言われました。
伊達政宗の正室陽徳院田村氏の求めに応じて作られ、庶民の間に広まって、慶安3年(1650年)を初め3回にわたって印刷されました。
この資料は瑞巌寺から発行された3回目の版木で、変体仮名綴りになっています。版行年は不明。


●松島円福寺寺領同寺用米証状注文(まつしまえんぷくじじりょうおなじくじようまいしょうじょうちゅうもん)外一点 平成2年4月6日指定

 

●雑掌景顗言上案(ざっしょうけいがいごんじょうあん)

 感応元年(1350年)
(縦29.5cm 横36.6cm)
南北朝中期に、天台勢力と禅宗勢力は寺務の管轄権をめぐって激しく対立していました。
この文書は数百年間の正当性を主張した天台側の訴えに対して、北条時頼によって造立され、関東祈願所とされた禅宗円福寺こそが正しい寺務の継承者である、と禅宗側が反論したものです。


●寺領同寺用米証状注文 平成2年4月6日指定
室町時代(1400年頃)
(縦31.7cm 横41.0cm)
最明寺殿は北条時頼、長寿寺殿は足利尊氏、大休寺殿は足利直義、吉良右京兆は奥州管領吉良貞家、中(なか)将軍家は足利義詮(よしあきら)、当御管領(かんれい)は斯波義将(しばよしまさ)。
北条時頼以来、応永年間までに禅宗円福寺に対して出された寄進状・安堵状を書き留めたものです。
寺務をめぐる天台勢力と禅宗勢力の訴訟に際して、禅宗側が証拠として提出した文書のリストと思われます。
残念ながら、これらの文書は現存していません。

 

●伊達政宗和歌懐紙(わかかいし) 1幅 平成2年4月6日指定
慶長14年(1609年)
(紙本墨書 縦40.4cm 横22.1cm)
慶長14年陰暦3月26日、瑞巌寺方丈(本堂)が5年もの歳月をかけて落成したときに、これを岩って詠んだ和歌です。
政宗
松嶋乃枩農齢尓此寺(まつしまのまつのよわいにこのてら)の
須恵佐可(すえさか)へなむ年ハ婦(はふ)るもと
松島の松の長齢になぞらえて、新しい瑞巌寺の末永い繁栄を祝っています。

 

●龍山開祖伝 1冊 平成2年4月6日指定
文化10年(1813年)
(紙本墨書 縦28.6 cm 横19.0cm)
龍山は青龍山の略で、瑞巌円福寺の三開山(鎌倉期円福寺開山法身・瑞巌寺中興雲居・同再度中興洞水)の経歴を漢文体で記したものです。
元禄9年(1696年)104世夢庵が編述したものを文化10年、象外慧休(ぞうがいえきゅう)が筆写したもので、原本は所在不明になっています。

 

●留守政景所役免除状(るすまさかげしょやくめんじょしょう) 1幅 平成2年4月6日指定
天正6年(1578年)
(紙本墨書 縦32.2cm 横45.7cm)
瑞巌寺の所役を免除した文所です。宛名の実堂和尚の時に、鎌倉建長寺派から京都花園妙心寺派となります。
政景は伊達晴宗の三男で、政宗にとっては叔父にあたります。宮城郡東部を治めていた留守顕宗(あきむね)の養子になりました。
天正6年当時、瑞巌寺は留守氏の支配下にありました。

 

●天台由緒記 1巻 平成2年4月6日指定
文型2年(1470年)奥書
(紙本墨書 朱筆 縦24.0cm 横207.5cm)
瑞巌寺の寺侍だった蜂谷家に伝わった資料です。成立年代は南北朝もしくは室町時代初期と考えられています。
内容は、慈覚大師によって創建された天台宗円福寺が次第に衰退し、法身を擁護した北条時頼によって禅宗寺院円福寺となる一部始終が書かれています。
瑞巌寺の歴史を知る上で根本の資料の一つになっています。

 

●松島諸勝記 1冊 平成2年4月6日指定
文化13年(1816年)
(紙本墨書 縦26.2cm 横18.5cm)
瑞巌寺104世夢庵が享保元年(1716年)、松島にある寺社の縁起や地名の故事来歴を地誌学的に記述・紹介した本を、文化13年(1816年)に象外慧休が筆写したもので、松島研究の基本文献です。残念ながら原本は失われています。

 

●慈光不昧禅師号綸旨(りんじ) 1幅 平成2年4月6日指定

承応3年(1654年)
(紙本墨書 縦34.5cm 横46.3cm)
瑞巌寺中興開山雲居希*の活躍に対して、後光明(ごこうみょう)天皇から賜った禅師号です。
このとき雲居は73歳。生前中に下賜されるのは非常に珍しいことです。


●松島御仮屋守文書 3冊 平成10年12月25日指定

(紙本墨書 縦16.7cm 横46.0cm)
寛政5年(1793年)・寛政6年(1794年)・安政6年(1859年)
寛延2年(1749年)から安政6年までの観瀾亭に来客した藩主、姫君、幕府巡見使の年月日・回数を記録したものです。
特に寛延2年3月から安政4年10月までの49年間の来客者は、名前と目的が克明に記されています。


●大悲円満国師号宸翰(しんかん) 平成2年4月6日指定 
享保19年(1734年)
(紙本墨書 縦34.8cm 横54.1cm)
国師号というのは、天皇の師、または多くの国民を教化した偉大な僧侶に与えられる尊称です。
瑞巌寺の歴代中で国師号は雲居だけで、中御門(なかみかど)天皇より下賜されました。

 

●御船歌集 2冊 平成7年9月29日指定

江戸時代
仙台藩の御座船の水主衆が藩主の遊松の際に、船上で操船や興を添えた船歌の手控えとした写本です。
全曲が収録されていると思われます。